• 理容の発症 藤原采女亮(ふじわらのうねめのすけ)
  • 昭和天皇御理髪奉仕者と使用した椅子
    天皇の散髪は代々決まった人が担当しています

理容のルーツを教えましょう。鎌倉時代、山口県下関市御所の宝物係として亀山天皇に仕えていた藤原基晴(ふじわらのもとはる)の三男采女亮(うねめのすけ)が生計を立てるために新羅人から髪結い技術を学び、髪結い所を開きました。店の床の間には天皇を祭る祭壇があったために、この店のことを「床の間のある店」「床場」「床屋」と言うようになり、全国へ広まったと言われています。また、昔は理容外科医として、理容師と外科医を兼ねていました。そのなごりが、くるくるまわる看板「サインポール」です。当時の外科医の治療として瀉血しゃけつ)がありました。これは、体の悪いところには悪い血が集まるという考えから、その部分の血を抜き取るというものです。理容外科医の棒を握らせ患部を切開し、その棒を伝って血を抜き取るものです。その後衛生面を考え棒を赤く塗って使用し、治療が終わった後洗浄した棒と、傷口に巻いた包帯を店の軒先に干していたところ、風に吹かれてその包帯が瀉血棒に螺旋状に巻き付いたのが、バーバーズポール、今のサインポールになったと言われています。
また、理容外科医だったため赤は動脈、青は静脈、白は包帯という説もあるそうです。